考える虫のつぶやき

こうやって生きたらいいのに を探して、物の見方、考え方について、あれこれと思うままに書いています。なぜか夜中ばかりの投稿ですが…

強い批判は問題の解決にならないような...黒人銃撃事件の抗議行動で思うこと

撃たれるまでの映像、かなり緊迫してて、単純に差別的な考えから撃ってるか?というと...?かな

問題は周りの反応だと思う

頭から黒人差別だと言って、暴動を起こしてしまっている。

バイデン氏も、そのコメントをすることで、結局、煽るだけだし、政治利用してるにだけに見える。

逆に、
トランプ氏は、「法と秩序」以外は、直接は触れるようなコメントをしていない。こっちの方が、適切な対応だと思う。

これに触れていないことを、批判する人たちがいるけど、
その批判そのものが黒人差別問題を煽っているだけじゃないだろうか。

今はみんな、特にアメリカはこの問題で、緊張した状態にあるので、
普通の事件が、そうではなくなる...ちょっと悲しいけれど...orz

踏み込んで言えば、
普通の事件を、「被害にあった!」と故意に引っ張り上げて、
日頃思っている自分たちの主張や、不満の捌け口に利用しているだけの人たちが多いように見える

その結果、
亀裂はめちゃくちゃ大きくなってしまって、取り返しのつかない状態になっている


これは、黒人差別だけじゃなく、女性やマイノリティへの差別やいじめの問題でも同じように感じることが多い。

「被害にあっている!」を過激に主張しても、返って問題をややこしくしているだけのように見える。なので、例えば、

「こんな風に活動すると、良い関係が築けられているので、活動を理解して欲しい、支援が必要です、そして、この問題をもっと知って欲しい」
のような主張の方が、聞いていても「なるほどなぁ」と受け入れ安いので、そういった主張を、どんどんすべきだと思う。

何故かこういう受け入れ安い主張、活動って、報道で取り上げられてない訳ではないけれど断片的で、批判的な報道に比べると、圧倒的に少ない。

報道機関って、「何々を監視する」とは言うけれど、
世の中を良くするための活動はしない」んかなぁ?、不思議です...

とにかく、

今はもっと冷静にならなくちゃいけないと思う。
コロナ禍で、大変だけど...


アメリカ 黒人男性銃撃で抗議激化 混乱続き夜間の外出制限措置 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201029/k10012685821000.html

高度で豊かと信じる社会≠心優しい社会を、なぜ目指してしまうんだろう...?

昨日の通勤ながらのラジオ、断片的にしか聞けなかったけど、いい話だったので...

ブラジル在住の人へのインタビュー、
そこは、
貨幣に頼らない、物と物との交換(分けあって)で結構、社会が回っているらしい。

たぶん、所謂、「便利で豊かな」ではなさそう。

だけど、
みんな顔見知りで、助け合いながら暮らしていて

聞き手のキャスターが、
「移住してどういう風に感じましたか?」と訪ねると、

みんな思いやりがあって、家族愛やパートナーシップが感じられて、人間らしさ、心の豊かさを実感しました」といった感じのことを話してくれていた。
運転しながら、羨ましいなぁ、ちょっと行ってみたいなぁ...と

実際に、
「今の便利さ、捨てる勇気があるか」
と言われると正直自信はないけれど...


こういう話を聞くと、

人間は、高度な社会を手に入れれば入れるほど、生き物としては、駄目になっているんじゃないんかかぁ?
と、ふと思ってしまいます。

なぜ、
便利さや豊かさを追求しながら、お互いを思いやる気持ちをちゃんと持ち続ける」ことができないんだろう...?
とも...

そして、本来なら、

「それをどうやれば実現できるか?」を、じっくり考えて行くべきなんだけど、なかなかそういう流れにもならない...orz

やっぱり、難しいことなのかもしれない。

これから先、僕らは、
さらに高度で豊かな(と信じている)社会を求めていっちゃうんだろうけど、一体、何を捨てなくちゃいけなくなるんだろうか...?

もう随分と捨てるものがなくなって来ていて、かなり不味いところまで来てそうだけど...


これ以上、
相手を思いやる気持ち」は捨ててしまわないようにしなくちゃいけない...きっと...

余白(遊び)のある世界がいい...人も機械も余裕が大事

今日、職場での話、

これからの仕事の割り振りを決めなくちゃいけない、ということで、ミーティング。

どうやら、
割り振る仕事と、人の数がぴったり
さて、
「誰をどれに?」ということになったのですが、

理想を言えば、

仕事(名目のある役割)の種類(傾向)の数と、
それに「適した人」の数が合えば、
問題ない。けれど

実際は
仕事の数と人の数がちょうど同じで、全員が適材であることはまずあり得ない

結局、
いくつかの仕事は、
「誰ならなんとか...」、「誰よりはましだろう...」みたいに、前向きじゃない話になるし、ほかにも、

仕事にも負荷の大小があるので、
「誰々は負担が大きいんじゃ...」、「誰それは、その程度でいいの?」とか、
不公平にも気を使わなくちゃいけない...面倒くさい...orz

これって、
人の数が仕事の数よりも少し多いだけで、かなり解決できるはずなのに!と、毎回、思ってしまう...orz、
是非してくれ~。

もし、そうなら、
その余白になる何人かは、決まった役割には割り振られない。なので、
「いくつかの仕事をオーバーラップするようなポジション」
になってもらえば、役割の不公平感も減らせる。そして、

その人たちは、複数の仕事を経験するので、
次の仕事の割り振りでは、
「誰をどの仕事に」
を決める自由度が増える。

「人が増えて、その分人件費が...!」って、声も聞こえて来そうだけど、

仕事の不公平感で生じる"後ろ向きな仕事ぶり」とか、「誰かが欠けたときの対処」とかで、
全体が非効率になる分くらいは、なんとかなるんじゃないかなぁ...

それと、
少し余裕のある人がいて、「助けてくれる」と思うだけで、
安心できる
し、
「自分だけでなんとかしなくちゃ」的な無意味な緊張感もなくなるので、そういう時って、
アウトプットもいいもの が多いように思う。

逆に、
余裕がないと、
いつも「やっつけ仕事」感満載のアウトプット
を出していて、評判 下がんないかなぁ...と、ひやひやしています。

紙に書かれた「仕事の項目(リスト)」だけ眺めて、1対1的に決めたって、
所詮、人は動物で、リストにない"感情"に左右されて動いてしまう」、

やっぱり、
人を見ながら、どう思っているか?」を、ちゃんと配慮しなくちゃダメだし、それができると、

余白(遊び)の大事さ、効果」も必然的に分かるはずなのになぁ...と考えています。


学生の頃、友達と阿蘇に行ったときかな、
ゴーカートに乗ることになって、そのスタッフが、
「ハンドルに、"遊び"がないので気をつけて下さい」
と言ってくれたんだけど、
そのときは、意味が分からず、

実際に運転して、
カーブに差し掛かりそうなので、ハンドルを切る始めると、その途端、

「カートは、急旋回して、縁石に激突...orz」

このとき初めて、
機械の「遊び」の意味を身をもって知りました。

「遊び」のお陰で、
ハンドルを切っても、車はすぐに反応せず、徐々に旋回を始めて、ドライバーは、その様子を確認しながら、切る量を調整できて、上手く曲がることができるということです。


結局、
人も機械も同じで、"余白や遊び"がないと、上手く機能しない」、なので、
世の中、早くそういう流れになんないかなぁ...と、最近、強く思っています。強く...

今は、
いろんな事が細かくて、窮屈で、みんな余裕がないのを、ひしひしと感じます。
SNSの批判もその1つかな...
しかもコロナ禍が輪を掛けている...

だからこそ、「余白や遊び」を

と思っていて、人と接するときは、それを心掛けているけれど、ちゃんと出来てるかどうかは不明...


でも、おそらく、
「余白や遊び」は、心に余裕を作るし、そういう人たちが増えるので、
メンタルで悩んでる人や、自殺をしてしまう人も、減るんじやないのかなぁ...

ヤングケアラーが増えているらしい...少子化、核家族化の中で

今朝、いつものように車でラジオを聞いてると、

家庭で介護をせざるを得ない18歳未満の若者が増えている」 という話題をやっていた。

ヤングケアラー」というらしい。

孫が認知症の祖父母の介護をしたり、精神疾患などの親のサポートをしたり...

学校に通いながら...

本当に大変だと思う。

私も昨年、認知症の母がなくなって、施設に入っていましたが、面会時以外でも、どこかで気にしていて、負荷は少なかった方だと思いますが、今思うと大変に感じることがありました。


そして、さらに、

そういったヤングケアラーは、孤立してしまいがちで、彼らの支援をどうしたらいいのか? について専門家の意見を聞いていた。

一番は、そういう状況にある「彼らの話を聞くこと」(自分から話をするのをちゃんと待って)、そして、
こちらから、色々と助言的に言ってしまうと返って駄目なことが多い とも...

それと、
こういった若い人が増えている背景には、少子化核家族があると言っていた。

個人的には、またその背景には、
「個人の自由とか自立」を良しとする、行き過ぎた風潮が、今、じわじわと現れているんだろうなぁ と思う。

そういう風潮と、家族が小さくなったせいで、自分もきっとそうだけど、
周りに配慮する感覚が鈍くなっていて、人間関係が希薄になっている」んかなぁ...と、

その結果、
当人は、誰かに相談したり、助けを求めたりすることもできないし、
周りも、どう関わっていいのか分からない...僕もきっと、そうなるなぁ...

なので、
この時代、多少、面倒とは思うけど、できれば家族の繋がりは大切にしなくちゃと思いました。

あと、もう1つ、専門家の話で、

「ヤングケアラー」の問題に対して、

「苦労の部分だけを注目して取り上げるのではなくて、
どんなことができるかを一緒に考えていくことが大切です」

という話があって、なるほどなぁ...、とても共感しました。


最近だと、
差別やマイノリティの問題がよく話題になるけれど、
「こんなに酷い目にあっている」とか、「こんなに被害にあっている」という部分ばかりを取り上げて主張するのを見かけます、
三者的に、共感しにくいなぁと感じてしまうのは、「被害ばかりを訴えてる」からなのかも...と思いました。

「今はまだ少ないけど、良い事例を積み重ねて、その支援・拡大を訴える」
そういったことができたらいいんかなぁ、と...

色々と考えさせられました。

ずるく先回りするつもりはないけれど...ただ早く察してしまう...

自分の性格についての話です。たぶん

ときどきパートナーから
「いつも自分の思い通りやっていてずるい!」
と言われることがあります。

でも、
自分の欲求で、始めから
「こうしてやろうっ!」とか、
「こうしたいっ!」って
考えてやってることなんてほとんどありません。

本当なら、「自分でこんな風にやりたいっ!」と思って行動できればいいんだけど、そういう意欲がちょっと希薄なのが、自分の残念なところ...orz

で、話は戻りますが、

相手がそう思うのは、
そのときになってみると、
「僕が言ってたようになっていた」とか、「僕が言うようにしなくちゃならなくなっていた」から
、たぶん、

僕からすれば、
「なるべくしてなった」、ただそれだけなのですが...、
正直なところ、
「ずるい」とか、「怖い」と思われてしまうは困ってしまいます...orz


おそらく、
これは小さな頃からだと思うのですが、ちょっと気にかかること(不味いことが起こりそうとか)には、かなり察しが早いんだと思っています。
で、それを全力で避けたいと思っている、なので、

察した瞬間から、
「このさきこんなことが起こりそうだから、これをしておこう...」とか、
「そうならないように意識的にこうしていこう...」などなど、

「今ではない、いずれ来るかも」的なことに対して、たぶん、
最初に意識したことを、半分無意識的な状態で普段の行動に取り入れて、過ごしている んだと思います。

だから、

最初に心配していたことが起こりそうな「そのとき」には、結構、対応できる状況ができていたり、対処の方針が決まっていて
「こうするしかないね」とか、「大丈夫、こうやればいいから」など、決まってる的な話をすることになってしまいます。なるべく、やんわりと話しているつもりですが...

相手からすれば、
「僕が決めた、他に選択肢のない」状況になっているために、
「その通りにさせられて、いつも、ずるい」と感じてしまうんだと思う...
なんとなく分かる気もします。

ただ、僕からすると、
「相手も選択肢がなくて、そうするしかない」んだったら、そんなに悪くはないんじゃないかな...? って思ったりもします...


なかなか上手く話せていないけれど、
とにかく、

出し抜いて、ずるく先回りしようとは思っていなくて

純粋に、そして、無意識のうちに、
ちょっと嫌だなぁってことは早々に察してしまい、
そんな嫌なことは避けて、上手い方向に持っていきたい と思ってしまう

ただ、それだけなのです。

そんな風に、敏感に察して、その瞬間に先々考えてしまう(たぶん、心配性な)性格で、いつも先回りしたようなことになっちゃうけど、意地悪な気持ちはこれっぽっちもないのです...

そんな人もいるんで、それを少し理解してもらえたらと思って書いてしまいました。


早々と「危険を察知っ!」みたいな...

でも、
そのときどきの出来事の結果をみると、理解されにくいよなぁ...orz

教員負担の問題...部活動だと連盟・協会との繋がりも足枷では?

昨日、朝のラジオで、学校教員の負担の話題をやっていた。

やはり「部活動」が取り上げられ、競技会等への過熱が負担増に繋がってしまいがちだと言っていた。

知り合いから聞いた話でも、

運動系では学校とは別に各競技に○○連盟、協会とかのしっかりした組織があって、そこから学校が(新しい競技者の供給元として)頼られていて...その繋がりが~
と言っていた
今は競技人口が減っているので、なおさらみたい。

でも、それを聞くと、
それはちょっと違うよなぁ!?って思ってしまう。

学校には、学校の本分(社会で役に立つ知識(生きていくのに必要な知識)を身に付けるために勉強する)があって、
今は、手が回らなくて、それすら揺らいでいる状況を考えると、

本来なら、逆に、そういう連盟や協会から、OB・OGの指導者をどんどん出したらいいのにと思ってしまう。

ただ、同時に、そういう外部の指導者を受け入れるための制度を早く整備されなくちゃいけないから、そうなればいいのになぁと...

連盟や協会が認定した指導者という形であれば、
学校側が外部の指導者として受け入れても、保護者も「どこぞの知らない人」ではなくなるので理解も得やすいんじゃなかろうか...

そんなに都合よくはいかないかな...?


でも、教員の負担軽減は急務だと思う。

コロナ禍のこのタイミングが、余計な業務を絞り込む良い機会と思うんだけど...
教員負担の問題だけじゃなく、何故か、何事も、コロナへの対応分だけ何かしら負担が増えてる気がする...orz

批判的精神...ただ批判だけをしてしまうのは...?

いろんな物事の問題に対して、最も良いと思える解決法を見つけるには、
「批判的精神、批判的思考」が、とても重要だと言われています。

批判的思考は、wikiにちゃんと書かれていて、参考になります。

今は、SNSが発達して、みんなが自由に意見が言えるようになって、良い面もあるけど、

それらを通じて、何かを「批判する」ということについては、負の作用が強く出ているように感じます。

最初に書いた、
「最も良い答えを見つける」を考えれば、

「批判する」ことは、
今ある案を単に「否定」するのではなく、それに変わる答え(代替案)を提案し、良くするための議論する機会を作ること
で、

全体として、
「批判する」は、より良い解決策を見出だすための一つの過程にすぎません

でも、今、
色んなニュースや、SNSなんかで出てくる「批判」って、
「その先、どうしたいんだい?」
って思うものが多い
のが気になります。

もうちょっと深読みしてしまえば、
「現状に不満があるから」とか、
「そもそも思想が違うから」とか、
そういうものが、原動力なだけで、
『ある問題を解決するため』という思いは見えません。もしかして、
「ただ単なる批判キャンペーンでは?」とすら思うこともあります。

そして、
批判するそれなりの人が、
「格好いい」とか、「立場が上っぽい」とか、そういった程度の感覚を持っているんじゃないかなぁ? とすら思います。

あと、
「ただ批判するだけ」ってことは、つまり、
いつか誰かが、その批判を汲んで、何かをやってくれる と思っていて、
それが、またちょっと違うと不満を感じて、再び批判する
それを繰り返してしまう

きっと、そんな風だと考えています。

それと、
これはSNSが広がって、顕著になった、ひょっとすると、助長されてしまったことかもしれないけれど...
「批判するだけ」の人は、同じような人を見つけて同調して、見つけ出して同調させてしまう傾向が強くあるように感じます。

それぞれが、「批判の先」を考えるようになれば、違いも出て来て、そんなことも減ってくるのでは?とも思っていて、

批判的精神で「批判して」大きな体勢を変えるのは難しいけど、
自分が思う「批判の先」を少し取り入れて自分の行動を変える くらいはできるかなぁ、ささやかな抵抗だけど...

最後に、
「批判の先」を思うことがないなら、批判する意味はないように思ったりもするけれど...