今日、職場での話、
これからの仕事の割り振りを決めなくちゃいけない、ということで、ミーティング。
どうやら、
割り振る仕事と、人の数がぴったり。
さて、
「誰をどれに?」ということになったのですが、
理想を言えば、
仕事(名目のある役割)の種類(傾向)の数と、
それに「適した人」の数が合えば、
問題ない。けれど
実際は
仕事の数と人の数がちょうど同じで、全員が適材であることはまずあり得ない。
結局、
いくつかの仕事は、
「誰ならなんとか...」、「誰よりはましだろう...」みたいに、前向きじゃない話になるし、ほかにも、
仕事にも負荷の大小があるので、
「誰々は負担が大きいんじゃ...」、「誰それは、その程度でいいの?」とか、
不公平にも気を使わなくちゃいけない...面倒くさい...orz
これって、
人の数が仕事の数よりも少し多いだけで、かなり解決できるはずなのに!と、毎回、思ってしまう...orz、
是非してくれ~。
もし、そうなら、
その余白になる何人かは、決まった役割には割り振られない。なので、
「いくつかの仕事をオーバーラップするようなポジション」
になってもらえば、役割の不公平感も減らせる。そして、
その人たちは、複数の仕事を経験するので、
次の仕事の割り振りでは、
「誰をどの仕事に」
を決める自由度が増える。
「人が増えて、その分人件費が...!」って、声も聞こえて来そうだけど、
「仕事の不公平感で生じる"後ろ向きな仕事ぶり」とか、「誰かが欠けたときの対処」とかで、
全体が非効率になる分くらいは、なんとかなるんじゃないかなぁ...
それと、
少し余裕のある人がいて、「助けてくれる」と思うだけで、
安心できるし、
「自分だけでなんとかしなくちゃ」的な無意味な緊張感もなくなるので、そういう時って、
アウトプットもいいもの が多いように思う。
逆に、
余裕がないと、
いつも「やっつけ仕事」感満載のアウトプットを出していて、評判 下がんないかなぁ...と、ひやひやしています。
紙に書かれた「仕事の項目(リスト)」だけ眺めて、1対1的に決めたって、
「所詮、人は動物で、リストにない"感情"に左右されて動いてしまう」、
やっぱり、
「人を見ながら、どう思っているか?」を、ちゃんと配慮しなくちゃダメだし、それができると、
「余白(遊び)の大事さ、効果」も必然的に分かるはずなのになぁ...と考えています。
学生の頃、友達と阿蘇に行ったときかな、
ゴーカートに乗ることになって、そのスタッフが、
「ハンドルに、"遊び"がないので気をつけて下さい」
と言ってくれたんだけど、
そのときは、意味が分からず、
実際に運転して、
カーブに差し掛かりそうなので、ハンドルを切る始めると、その途端、
「カートは、急旋回して、縁石に激突...orz」
このとき初めて、
機械の「遊び」の意味を身をもって知りました。
「遊び」のお陰で、
ハンドルを切っても、車はすぐに反応せず、徐々に旋回を始めて、ドライバーは、その様子を確認しながら、切る量を調整できて、上手く曲がることができるということです。
結局、
「人も機械も同じで、"余白や遊び"がないと、上手く機能しない」、なので、
世の中、早くそういう流れになんないかなぁ...と、最近、強く思っています。強く...
今は、
いろんな事が細かくて、窮屈で、みんな余裕がないのを、ひしひしと感じます。
SNSの批判もその1つかな...
しかもコロナ禍が輪を掛けている...
だからこそ、「余白や遊び」を
と思っていて、人と接するときは、それを心掛けているけれど、ちゃんと出来てるかどうかは不明...
でも、おそらく、
「余白や遊び」は、心に余裕を作るし、そういう人たちが増えるので、
メンタルで悩んでる人や、自殺をしてしまう人も、減るんじやないのかなぁ...