考える虫のつぶやき

こうやって生きたらいいのに を探して、物の見方、考え方について、あれこれと思うままに書いています。なぜか夜中ばかりの投稿ですが…

体験がないと、いくら文書化を頑張っても想像力や考える力って中途半端...上手く理解されない気が...

最近、仕事で気になるのは、何でも文書化してしまってる…ってことです。

きつい言い方かもしれませんが、文書化する=仕事をした...ことになっている…そう感じることがよくあります…(^^;、これも...PCやスマホのお陰で、文書作成は格段に楽になったせいですが...

また…、

それを受け取る側も、文書化されたものに辟易しつつも…いつの間にか、これが記されてない、あれが記されてない…と、不備を指摘し応戦してしまっている…orz、そんな負のスパイラルに陥っていて…何とも言えないむず痒さを覚えます…

何でも文書化の風潮...心配なのは、「文書化したのでこれにしたがって、これからはやってくださいねっ、キリッ」…的なもののはずですが、色んなところで躓いてることがほとんど…(^^;

その理由を考えてみると...

実際にそれをやってもらうと、どうなっていくのか...が、あまり想像できてない...つまり、
実際に人を通して、行動がなされていって、それが複数の人だと理解されなかったり、想定外だったり...で、ところどころで上手くいかないことが起こってしまう…(^^;)

何かを人にしてもらうことで難しいのは、人は自分とは違う...ということです。でも...最近よく目にするのは、自分の思った通りに行動されないことにピンと来ずに困っている...そして残念なのは、怒ってしまっている...そんな光景です...orz

そこで感じるのは...、
現場での体験、体験とまでいかなくても、現場で行われていることの肌感覚...不足

そういうのが足りないと...、
「こういうことが起こりうるなぁ...」とか、「これは理解が得られないなぁ...」とか、「理解を得るにはこうしたら良さそう...」的な発想がでてこない...

今の文書化されたものって、プログラミングのフローチャート(流れ図)っぽいのが多い...(^^;)、

フローチャートって、作成者の考えた通りにしか動かない...けれど、人はそうはいかない...おそらく、文書化には限界があるんじゃないのかなぁ...と、だから「会議」があって、明記されたもので決められないことを議論して決定する...

文書化され過ぎちゃうと、つまり、細かく文書化されちゃうとガチガチになってしまっていて、ちょっとしたイレギュラーも受け付けられない…orz

随分前なら、じゃあ、そこは臨機応変に^^…でしたが…最近の悪い傾向は…さらに…、
そのイレギュラー対策の追加事項を増やし、どんどん文書を肥大化させていって、強大な矛盾束縛王みたいなものを育ててしまってます…トホホ

今って、そんな土壺に嵌ってしまっているような...気がします^^

僕の職場は、特にそれが顕著なのかなぁ…と思いつつも、子どもの学校の話なんかを聞いてても、その影響かなぁ…と勘繰ってしまうものもちょくちょくあって、蔓延してるのは間違いなさそう…

本当に心配なのは…
子どもたちが、そういった文書化の山の中で育っていってしまうこと...だったりします。

何かの良し悪しを判断するのも、考えるんじゃなく、どこに書いてあるかを探す、だったり、誰かの指示を待つ…とか、つまり、まずとりあえず答えを探す…そんな習慣がついてしまわないか…って心配になります…(^^;

子どもたちには...
何かの問題に出くわしたときに、何が正しそうか、どうしたら良さそうか...を、まずは自分で考える...、それから、必要があれば調べる...できれば、そうした方がいいよ...的な話を、そんな機会があったときにはしています...(^^)

学校は、多少気になる問題もあったりしますが、それでも、子どもたちが色んな人たちと関わる貴重な場でもあって、その関わりを通して、いいこと、わるいこと...様々な体験をします^^、そんな中で...、

何かコトに対して、まず「こうだよなぁ」的に思える 習慣がつけば、それってたぶん...今いる状況で、本質的に何が大切かをつかめるようになっている...んじゃないのかなぁ...って思っています。