今度の新札に採用される 「渋沢栄一」、いろんなところで取り上げられていて、なんだ!そんな凄い人なのか…!と、恥ずかしながら、最近、ちゃんと知った…orz
なので、
先日、子どもと本屋に行ったついでに「論語と算盤」(角川ソフィア文庫)を買って読んでます(^_^)。
その前半部分、
「立志と学問」の章に「精神老衰の予防法」という節があり、その中でアメリカから来たメービー博士が、日本人(日本)について、著者 渋沢に語っています。全く今に通ずるもので面白いです。
ほぼそのままを引用すると、
「私ははじめて貴国に来たのであるから、すべてのものが珍しく感じた。如何にも新進の国と見受け得る所は、
上級の人も下層の人も、すべて勉強しているということは、著しく眼につく、情けている者が甚だ少ない。しかしてその勉強が、さも希望を持ちつつ愉快に勉強するように見受けられる。
希望を持つというは、どこまでも到達せしむるという敢為の気象が尽く備わっておる。ほとんどすべての人が喜びをもって、彼岸に達するという念慮を持っていられるように見受けるのは、さらに進むべき資質を持った国民と申し上げて宜かろうと思う。
それらは良い方を賞讚し上げるけれども、ただ善いことのみを申して、悪い批評を言わねば、あるいは諛言を呈する嫌いがあるから、ごく腹蔵のない所を遠慮に申すとて、
私の接触したのが官辺とか会社とか、または学校などであったから、余計にそういうことが眼についたのかもしれぬけれども、
とかく形式を重んずるという弊があって、事実よりは形式に重きを置くということが強く見える。
アメリカは最も形式を構わぬ流儀であるから、その眼から特に際立って見えるのかもしれぬけれども、
少しく形式に拘泥する弊害が強くなっておりはせぬか。一体の国民性がそれであるとすれば、これはよほど御注意せねばならぬことと思う。
またどこの国でも、同じ説が一般に伝わるという訳にはいかぬ。一人が右といえば一人は左という。進歩党があれば保守党がある。
政党でも時として相反目する者が生ずるけれども、それがヨーロッパあるいはアメリカであれば、よほど淡白で且つ高尚だ。しかるに
日本のは、淡白でもなければ高尚でもない。悪く申すと甚だ下品で且つ執拗である。何でもない事柄までもごく口穢く言い募るように見える。これば自分の見た時節の悪かったために、政治界において、ことにさういう現象が見えたのでありましょう」
これって、
「今の日本人のことじゃないの!?」
と、思ってしまうようなことを、あの当時、メービー博士は渋沢に、忌憚ない意見として伝えています。そこでの指摘に正直ビックリします。また、その観察力の鋭さにも…
逆に、
今も悪いところはあまり変わってなさそうで、ちょっぴり残念な思いです…orz
今は、特にコロナ禍で、
本当は協力的にならなくちゃいけないのに、逆に、
僕らを、どんより、辛く感じさせている。それって、
まさにメービー博士が指摘していたことだよなぁ…と、
形式に重きを置きすぎる、
つまり、
細かなルールに縛られ過ぎる
そして、
政治において相反目する者が、何でもないことまで口汚く言い募ってしまう…、
これって、つまり、
今のマスコミや野党の対応や、ツイッターなんかのSNS上で、それに同調してみんなで寄って集って批判してしまう…
これに対して、メービー博士は、
アメリカやヨーロッパでは淡白で高尚だと言っていて、はじめはピンと来なかった。だけど、考えてみると、
それは、
相反目な者がいても、彼らの発言は建設的で前向きだということを意味しているんだと思います。
だから、欧米は
コロナ禍への対応も政治が強力に推し進められるのか…
と、今更ながら、納得してしまった。
そして、
この欧米人の良いところを、日本人でも上手く身に付ける方法 ってないのかなぁ…?と、考えさせられてしまった…
とにかく、前向きに考え、意見し、行動したいもんですね…、はい。