考える虫のつぶやき

こうやって生きたらいいのに を探して、物の見方、考え方について、あれこれと思うままに書いています。なぜか夜中ばかりの投稿ですが…

分けないって考え方、ダメかなぁ...

BLMや、LGBTなどのマイノリティの人たちへの差別が...というニュースや話題が絶えない。

裏を返せば、これまでの
「差別されてる~!」、「差別するなぁ~!」、「私たちの人権を守れ~!」...
的な、強い訴えや活動って、あまり効果をなしていない
のかなぁ...?と、

つまり、

そういう問題に対する認知は広がっているけど、
みんなが抱いてしまう「差別的な感情」はあまり減っていない
ということなんじゃない?...と

結局、
激しく主張すればするほど、意識し過ぎて、どうにもギクシャクしてしまっているように感じる。


僕の小さい頃の話になるけれど、

小さい頃に住んでた学区には、昔でいう部落の名残のある地域も含んでいたらしく、「差別をなくそう」的な運動に関わってる友達がいた。

たぶん小学生なので、本人の意思とは関係なかったと思うけど...

高学年になると、極たまにちらほらと、周りには「あそこらへんと付き合うのは...」的な話が聞こえてくることがあったかな...(その歳まで気が付かなかっただけだろうけど)

でも、
僕の母親は、今思えばだけど、
「そういうことを一切感じさせなかった」、なので、
僕は、その地区とか関係なく、誰とでも付き合って過ごしてました。

さらに、思い返すと、

クラスの席も、少し気になる生徒の近くになりがちだったような...、たぶん、
先生の意図的なもの(この子なら大丈夫的な)って、実はあったかなぁ...?と、
でも、それすら、
「わざわざ、気に掛けてやってね」
なんて一度も言われなかったんじゃなかったかな...

そういうこともあって、その当時、
それを嫌だとか、変だとか考えたことはなくって、普通に楽しく過ごしてました。

大人になって、
差別や人権関連のニュースが取り上げられる度に考えて、思うことは、

あのとき、母が、
「全く意識させないようにしてくれていた」
こと、学校でも、先生から、
「気に掛けてやってくれ」的なことを、ほとんど言われなかったこと
って、
本当に良かったなぁ...と、

「意識させない⇒分けない」、これが、本当は解決の鍵になるんじゃないかと、こうやって振り返って考えると、そう思う。

とにかく、
意識しなかったお陰で、ズカズカと相手に入って(話し掛けて)いけた気がするし、
ワイワイガヤガヤ、色んな意味で学校は楽しかった記憶があります。


でも、
今はやたらと、「これも差別、あれも差別...」と、関わる人たちはみんな熱心に、細かくケースを示すし、しかも、
もし、ちょっとでもそれに触れることをしてしまうと、たとえ、故意じゃなくても、激しく批判されるかもしれなくって、結局、

みんな過度に意識して返ってしまって...関係がギクシャクしたり、関わる前から敬遠したり、と、
最初から大きな隔たりを作ってしまっている
ように感じます。

知らぬが仏 じゃないけれど、特に、小学生くらいまでは、

「みんな仲良くしよう」とか、「仲間外れはダメ」程度をしっかり教えてあげるだけで、いいんじゃないかと思う。
性善説」を信じて、そして、それを伸ばすように、家でも、学校でもやれたらなぁって思う。

具体的な差別には触れるってことって、悪い例を見せるってことにもなるんで。


ここからは、半分、冗談めいた意見になるけれど...

今は、男女だけじゃなく、LGBTでもっと複雑であることを理解してってあって、色んな取り組みがされている。

どうやら、子どもの話だと、制服も男女の区別もなくなるらしい。

これと同じように、おそらく、
トイレやプールやスーパー銭湯のような公共性の高いところも、考えなくちゃいけなくなるとすれば、

いっそのこと、
「分けるの止めちゃえばいいのに」
と、ちょっと乱暴な意見が思い浮かんでしまう。

ただ、これだと人間じゃなくて、動物的本能を抑えることが難しくなるだろうから、あり得ないとは思うけど...

たぶん、
「分けてきたのは、人間が、動物的な本能をコントロールするための、一つの知恵」
だったんじゃないんかなぁ、男性、女性と性を意識したわけじゃなくて...


やっぱり一緒は無理で、分けるとすれば、
男"性"、女"性"じゃなくて、

進撃の巨人のように、
女"型"、男"型"として、
性をつけず、型として分けるしかない
かなぁ...て思う。
言葉遊びに過ぎないと、怒られそうだけど...orz

とにかく、
分けると、溝ができちゃったりしやすくなるので、
そこから、対立や拒絶が生じるくらいなら、分けるの止めちゃえばって、思う。

国境がなければ、戦争がないように...


だらだらと、長い文章になって、しまった...orz

次に繋げる力~戦前生まれの大きな先生~

今日、ノーベル物理学賞受賞の小柴先生逝去のニュースをラジオでやっていた。

パーソナリティーの話では、ノーベル賞受賞についても、
「周りのスタッフやそれまでの研究者のお陰で」と
非常に謙虚だったことが印象的で、
とても素敵な方だった とも...

他のニュースでも、
小柴先生の後進には、同じくノーベル賞受賞の梶田先生をはじめ、たくさんの優秀な方々が排出されていることも、伝えられてました。

小柴先生は90歳を超えられ、戦前生まれですが、
僕も縁があって、同じように戦前生まれの先生と仕事をする機会がありました。
その方も当時、普通なら、とっくに定年だったのですが...

その印象は、一言で言うと、
「パワフル」、そして、とにかく「前向き」で、

「道は、ガシガシ掻き分けて、自分で進んで行く」
感じでした。

それだけでも、十分すごいのですが、
さらに、驚くのは、

「面倒見の良さ」です。

色んな若い人たちを、どんどん巻き込んで、
「機会を作って、人を繋ぎ、活躍させていきます」
どこかで、そういう方針があるわけでもないのに...、

なので、結構、
そういうことを自腹でやっていたりもして、
「どうして、そんなことができるんだろう?」と、よく不思議に思ったものです。

さらに、
引き込んだ若い人で、「今はまだ、それをやらせるの無理なんじゃあ...?」と思えても、それをやらせて、その代わり、
「しっかり面倒を見て」
いました。

少し背伸びして、やらせてもらった若手も、それを乗り越えると、急に頼もしく変わるのが、とても印象に残っています。

とにかく、懐が深く、大きな先生、という表現が、ピッタリでした。

その年配の方と話をしたときに、強く感じたのは、
「今、関係してることを、『次にどう繋げていくか?』を、常に意識していて、『そのために、どう行動するか?』を考えている」
ということです。そして、

そこには、
「自分がこうしたいから...」
というのは、あまり感じません。

つまり、
「自分」ではなく、「関係する分野や、次に続く人たち」を考え、それを
「次に繋げる原動力」にしているわけです。そして、

そう考えることが当然で、そこには、何の疑う余地も無い という感じでした。


こういった「個(自己)」じゃなく、「全体」を考える 能力は、残念ながら今は、かなり弱くなっていて、
それが、至るところで、歪みとなって現れ、悪さをしているように見えます。

特に、「自己」を強く意識してしまっている人が多くなってる気がします。

それがいつの世代からって考えると、
戦後生まれ、つまり、団塊の世代ぐらいからかなぁ...と、そして、それ以降は益々、といった感じでしょうか。

団塊の世代の方とも、仕事でご一緒したことがありますが、
やはり大分違っていて、残念ですが、僕らに近い、小つぶな感じがしました。


最後になるけれど、

戦後の教育では、個人主義が良しとされてきましたが、
戦前の小柴先生や、その他の活躍されている方々をみて、そして、今の世の中の現状を考えると、
個人主義とは違う、何か大切にすべきものが、あるのではないか?

と思ってしまう、今日この頃です。

最後に、僕自身、
懐の大きな人にならなきゃ...とは思っているんだけど、
ケチな自分がいて、なかなかそうはさせてくれません...orz

ハラスメントと多様性とマイノリティと~キメハラ、逆キメハラで気づいたこと~

最近、キメハラ、逆キメハラってのを、ネットニュースの見出しで見かけて、・・・?って思ってました...、

ちゃんと読んでみると、
キメは、今流行ってる鬼滅の刃のキメで、ハラは、ハラスメントのハラで、

「鬼滅っていいよね」って、当然そう思うでしょ...的に肯定的に言ってくることが、キメハラ らしく、

逆に、「鬼滅ってどこがいいの?」って、批判的な同意を求めて言ってくることが、逆キメハラ らしい

いずれにしろ、
自分の感じてることと、反対の意見を言ってくることを、ハラスメントだぁ~て、騒いでいるっぽい。


個人的には、
1つの漫画・アニメのことで、本当にそんな風に感じるのか...って、思ってしまうし、
わざわざ、ハラスメントって言葉を使わなきゃいいのに...と思う。

そうじゃなくても、
みんなハラスメントって言葉に敏感になり過ぎな気がするから...


このハラスメントについて、ぼんやり思ったことは、

それを強く主張することは、
「反対意見や嫌なこと言わないで!」
って、他の意見を受け入れられないってことだから、結局、

多様性を否定することになるんかなぁ...と。

さらに踏み込んで、少し極端に考えてしまうと、

多様性を否定するってことは、
マイノリティが受け入れられ難い方向になるよなぁ...と。

最近、やたらと人権問題が取り上げられるから、こんなことを考えてしまうんだろうけど、とにかく、

人権問題と言えば、
ハラスメント、多様性、マイノリティ」ってのが、キーワードになってるように思う。

そして、

マイノリティが抱える問題の多くは、ハラスメントが関係している、つまり、「その問題をハラスメントとして主張している」
ことが多い気がする。

これって、前に話した、

過度なハラスメントの主張
⇒多様性の否定
⇒マイノリティへの不寛容

だとすると、
ハラスメントの主張は矛盾した行為ってことになっちゃう...orz

とどの詰まり、
ハラスメントをあまりに意識し過ぎることが問題じゃないか?と...

他の人の意見も、大したことじゃなければ、同意する必要もないし、

「そういう意見もあるんだなぁ...」程度に受ければ(受け流せば)、ただそれだけで良くって、何の問題もないはずじゃないかなぁ...と思ってしまう。


こんな風に考えて、いつも思うことは、

とにかく、最近は、
あまりに自分への意識が強くなり過ぎて、
ちょっと違う意見を言われただけで、
自分が否定されたように感じてしまう人が多くなった
気がする。

十人十色、色んな人がいて当たり前だし、その分だけ、色んな楽しみ方できると考えて、

ある程度は、
違う意見も寛容に受けられる(流せる)のが大切で、そうなれば、みんな楽しくなれるのに...って、心底思う。


最後になるけど、
ハラスメントが意識され過ぎて、口を閉ざされるのは、やっぱり、しんどい...、
ハラスメントの激しい主張って、傷口を開いて、分断を煽っているようにしか見えないし...

大統領選で明らかになった郵便投票の問題点~トランプさんのお陰?~

アメリカ大統領選挙、投票は終わったけど、残り接戦州の開票作業が続いている。一体、いつ決着するんだろう...

今のところ、バイデン氏が優勢っぽい。

この開票作業の遅れは、郵便投票の開票作業せいらしい...orz

トランプ大統領は、この選挙の随分前から、
郵便投票が不正投票に繋がる問題を訴えていたけど、

確かに、これだけ接戦になると、人の心理として、
不正の影響がかなり心配になっちゃう
のは分かる気がする。

客観的に、
「よくアメリカは、こんな気持ちの悪い制度」
を取り入れたなぁ...と思う。

それは、
うちの母は、亡くなるまでの約10年間は認知症だったけど、それでも、
選挙の度に投票用紙がちゃんと送られてきて、それを施設からもらっていた。
当然、母は意思表示はできませんでした。
そのときも、
「これって、勝手に代理人投票とかできちゃうよなぁ...」
って、思った記憶があります。


この認知症患者の1例をとっても、
郵便投票がどれだけ危うくて、選挙の厳格さを損なう方法」なのかが、すぐに分かるはずだけど...、それなのに、

アメリカ大統領を決める一番大事な選挙で、特別に厳格でもなく、対象者の制限もない「郵便投票」が使われることに、驚いてしまう...たとえ、コロナ禍とは言え

なので、
この投票制度について、
「誰が?、どういった経緯で?」、
と、多くが思ってしまうのも、言われてみれば分かる気がする...、そして、


郵便投票への反対理由として、
「不正の意図があるからだーっ!」
と言われると、
「本当にそうかもしれない!」
と、多くの人たちが思い、抗議行動を起こす
のも、よく考えれば、不思議ではなくなってしまう。

つまり、

この郵便投票制度は、不正の疑念が払拭できていない、あまりにも未完全な制度のままだと言って過言ではなく、結果的に、
この問題も、
トランプ大統領のお陰で、深刻な問題で、単なるきれい事的な制度であることが明らかになったと、言えなくもないかなぁ...と


ちょっと前にもブログで書いたけれど...

https://natumusi-sgr.hatenablog.jp/entry/2020/09/30/231139

トランプ大統領の大きな功績って、オブラートに包まれた問題、課題の掘り起こしなんだと思う。
本人には、残念かも知れないけれど...


ただ、この郵便投票を含めて、
トランプ大統領が掘り起こした色んな問題の解決は、険しい道ではあるけれど...orz

結局、教育しかないんじゃあ...激しい抗議は分断を生むだけでは?

アメリカ大統領選挙の投票は、いよいよ今日です。
投票日が近づくにつれ、異様で危険な様相を呈していて、関係ないけれど、ハラハラしてしまう。

どのニュースや、ドキュメンタリーも、トランプ氏とバイデン氏双方の支持者の激しい対立を取り上げていて、しかも、

お互いの暴走を怖れて、銃弾も売り切れているとか...さっぱり意味が分からん

そして、この選挙戦を意識してか、
有権者が激しい抗議活動も行われている。そこで訴えているのは、
コロナ禍における経済再開や、逆の規制強化、人種差別問題...等々

今年の始めごろ、
こういった抗議活動が起こり取り上げられると、さすがアメリカ~、
一人一人が考えて、ちゃんと声を上げて抗議行動をするんだ...と思っていたけど、

その後もちょくちょく抗議行動を見ているけれど、最近は、その多くが、
どれも自分たちの主張を一方的にしているだけなんじゃないのか?」と感じるようになりました。しかも、

それらの主張は、激しくなる一方で、それと共に暴力的な部分もくっついてきて...

つまり、
今の抗議行動って、一方的に主張するだけで、当然、対立する主張も一方的、結局、互いに全く接点がないまま、相手に負けじと ただただ激しくなっていく...

その様子は、まるで言葉足らずで、自己主張しかできない子どもの喧嘩みたい...子どもでもこうなると、どうしようもない

本来なら、
互いの意見を交わす場が必要なんだと思うけど、今、それを言う人は誰もいないかのように見える。

この選挙戦を取り上げた ある特集で、年配のアメリカ人が、
1960年代は、人種差別、肌の色による偏見は、学校で駄目だと、厳しく教えられていて、今みたいに酷くはなかったと話していた。

やっぱり、教育ってすごく大切なんだと思うコメントだった。
けれど、一方で、
今はその教育が、どうなされているんだ?と不思議になったりもしましたが...

それと、
抗議に関係することだと思うけど、

一方的な抗議や主張は意味がないこと、
そこから異なる意見も交えて、議論、意見交換をすること、
1つの妥当な答えを導くこと、

もちゃんと教育して、その当たり前の解決の流れを、みんながしっかりと身に付けることが必要なんだなぁ...と、

今回の大統領選の色んな事象をみて、強く感じました。

あと、
暴力的解決は、決してあり得ないということも...しっかり、強く教育で...当然なんだけど...orz

SNSの誹謗中傷って、どうやったら減らせるんかなぁ...?

SNSでの誹謗中傷の話題が、ずーっと出ています。もう、散々言われてるけど、なかなかなくなりそうにはないかなぁ...

本気で減らそうと思えば、やっぱり長いスパンでやらないと無理っぽいし、
それくらい根深い問題じゃないかと...

なんで、あんなに激しく、しつこく誹謗中傷しちゃうのかって、そうしてしまう人を想像すると、

小さい頃に、ちゃんと認められた経験が少ないからかなぁ...と思う。つまり、

認められるはずなのに と思う気持ちやプライドと、でも、どこかにある自信がないという自覚が、
そうさせてしまう...

誰かを誹謗中傷することで、その誰かを下げ、自分が上になることができて、安心を得ている ように見えます。

きっと、
小さな頃から、お母さんや、お父さんかる認められたり、やってることをしっかり受け止められた経験がなくって、
いつも認めてもらいたい、ちゃんと評価されたいと、心のどこかで思い続けてきたんかなぁ...?


学生時代にいた、すぐ誰かのダメ出しをしちゃうタイプの同級生を思い返すと、

家が子供に熱心(一方的に)、「きちんとしなさい」とか、「ちゃんと勉強しなさい」とか...で、そのせいで、学校生活はちゃんとやるし、成績もそこそこいい
だけど、
家では「~なさい」を言われるだけで、それをちゃんと認められてなかったんじゃないかなぁと...、
少なくとも、本人は認められたという実感がなかっただろうなぁ...、なので、

学校では、自分は「分かってる」、「ちゃんとできる」を積極的にアピールしてくることが多かったなぁ、残念なのは、

その必死さが返って友達の冷やかしの対象になって、ますます「認められなさ」が強められていたように思う。


そうやって、考えていくと、


大事なことは、

小さな頃は、親が子どもを、そして、子どものやってることを、
「ちゃんと認めてあげること、しっかり受け止めてあげること」

だと、思う。

子どもにとって、
身近なお母さん、お父さんに認めてもらえることは、何よりも嬉しいことだし、それが、しっかりとした自信になっていくように考えています。

身近な人たちが、ちゃんと認めてくれれば
外で認められたいと、思わなくて済むし、
無理に認められようとして、自分の優位さを示そうとして、
誰かを批判したりしなくて良くなって、それが習慣付くようなこともなくなるんじゃないか...?と、
かなり確信的に思っています。


ちっちゃい頃からって話になっちゃうけど、やっぱり、
三つ子の魂、百まで
子どもの頃って、ものすごく大切で、この時期に、寛容で優しく、子どもの一生懸命を受け入れてあげれば、

大きくなって、誰かを誹謗中傷したり、傷つけたりはなくなるんじゃないのかなぁ...

なかなか、長く、時間のかかる解決に方法だけど、それでも、みんなが抱えてる色んな問題が解決されると思う。

そういう社会になって欲しい...

信号のない交差点で思い遣り ~ベトナムの思い出~

もう、かれこれ10年ほど前に行ったベトナムの話です。

仕事で、ホーチミン、かつてのサイゴンに行きました。

そのときに、
強烈に印象に残ったのは交差点。

今はあれから何年も経ってるので、どうなっているのか...、かなり整備されているのかもしれません。

当時は、結構、大きな交差点でも信号機がなく、びっくりでした(@_@)

バイクの方が自動車より多かったのですが、いずれにしろ、大きな交差点は、交通量はかなり多く圧倒されました。

さらに驚くことに、多くの交差点で信号機がありません...‼️

面白いのは、信号機もすべて統一されてなくて、どこかの国の払い下げ品のようなものが使われてたりします。

日本の歩行者用の信号機もありました(^-^)

それだけでも面白い交差点だったけど、

そこを通るバイクや車の様子は、正に混沌、
その混沌とした光景には何故か心惹かれるものがあって、何度も、そして、どれだけ見ても飽きませんでした。

たぶん、何か起きそうで、ハラハラするからかな?

特に面白かったのは、
縦の流れと横の流れが入れ代わる瞬間

信号機がないので、流れが入れ代わるのは、

一方の流れに"ほんの僅かな隙"ができる瞬間

その間隙を突くように、もう一方の流れで待っていた一人が、さっと切り込み、それに引きずられて数台が続き、半強制的に流れが入れ代わります

このスリルある瞬間に、毎回、引き寄せられ、見入ってしまってました。

市街地では、こんな交差点が至るところにあって、数日間の滞在期間中、
一度も大きな事故を見かけることはありませんでした。


このときに思ったのは、

信号が無ければ無いなりに、個々の運転者は、その分、周囲に気を使うようになって、結果的に、事故もなく、上手く機能してるじゃないか...!」

ということです。

日本みたいに、信号機が行き届いていると、
信号に頼ってしまって、ドライバーは気を配ることを止めてしまう」もし、そこで、
ちょっとした異常が起こっちゃうと、対応できずに、返って大きな事故を起こしてしまうんだと思う。

特に今は、みんながギクシャクしがちなので、

信号がない方が、周りを気を配らなくちゃいけなくて、相手を思いやる訓練になって、色んな派生的な良い効果が出てくるんじゃないかなぁ...と、

結構、真面目に思っています。