考える虫のつぶやき

こうやって生きたらいいのに を探して、物の見方、考え方について、あれこれと思うままに書いています。なぜか夜中ばかりの投稿ですが…

コンビニコーヒーで被害者を生まないシステム...って?議論にすることに違和感...ちゃんとしてる人が不便にならない?

セブンのコンビニコーヒー、あの価格なのに、十分な美味しさでよく利用しています^^

そのコンビニコーヒー...ネットのニュースで、R(レギュラー)で注文して、L(ラージ)を入れていて逮捕された話の中で、犯罪機会論なるものが出ていました...orz

記事では、犯罪者が犯罪をしにくい仕組みや環境...についての話になっていました...ん?

もし、その犯罪者のために、仕組みが変わるとすれば、恐らく、ちゃんと利用している多くの人たちがちょっとした値上げや、監視されているような視線を感じたり...何らかの不利益を被ってしまうはず...これってやっぱりおかしい気が...(^^;)

今回の事件って、正しい利用者を守るために、不正な利用をした人が逮捕された...ってことだと思う。

コンビニ側は、逮捕に繋がる対応をすることで、多くの適切な利用者の利益を守った...ってことになるんじゃないのかな。

色んな事件のケースがあるので、犯罪機会論そのものを否定するわけではないですが、このコンビニコーヒーの事件に関して言えば、犯罪機会論を議論することに違和感を感じてしまいました...(^^;)

そんな議論より...、

小学生くらいまでの間に、「ずるをしない」とか、「嘘つきは泥棒の始まり」みないな、みんなが困る悪いことをしちゃダメ...的なことを、丁寧に教えてあげることが大切 で、それを考えるような話題にすればいいのになぁ...(^^)

コンビニコーヒーって、手軽に利用できるところがメリットだろうし、手軽なセルフにすることであの価格を実現してるのかなぁ...と。そのコンビニの努力を考えると、今の物価高もあって、いつも利用しながら、本当に感謝しています^^

ちゃんとしている人たちは、そのシステムを正しく利用して、そのお陰で、気軽に安くて美味しいコーヒーが飲めている...(^^)/

こんな手軽に安くコーヒーが飲めるシステム、日本でしか成り立たないすごい仕組み...じゃないかなぁ...、こういう形のサービスが続く日本であって欲しい...心からそう願っています^^

 

性善説のチカラってとてつもない...?、やっぱり性悪説より性善説がいい^^

昼に子どもを迎えに行った車での帰り、ラジオのニュースで大谷選手の元 通訳の事件と、大谷選手が松井選手の記録に並ぶ活躍の話題が流れて、ちょっとその話になりました。

「なんで、あんな事件の被害にあったのかなぁ...?」、確か、そんな感じのことを子どもが話してきたのがきっかけだったかな...

それで、僕が思うところで話したのは...

大谷選手は、たぶん、ものすごく性善説で生きている気がする...だから、身近な人があんなことをするなんて思ってもみなかった んじゃないかなぁ...と

でも、ものすごく性善説で生きてるから...、

何でも前向き、これまで関わってきた人たちの前向きなアドバイスを、ものすごく素直に信じて、前向きに、真面目にちゃんと取り組んで、それが今、あれだけの成績に繋がって、今回の詐欺事件も関係ないような成功になってる...そんな風に思う^^

あんな事件に遭うなんて...って考えると、やっぱり性善説は...って思うかもしれない...けれど、
ものすごく性善説だから、信じられない成功に繋がっていて、もし、性悪説寄りの考えだったら、そもそも今の大谷選手はなかったかもしれないね...(^^;)

だから、やっぱり性善説がいい んじゃないのかなぁ...きっと。

あと...、

大谷選手って、小さな頃からずっと、すごくいい人たちの中で育ってきたんじゃないかなぁ...

...的な話をしました。


何かとてつもない良い成果を出せるとすれば、やっぱり、性善説...なんだと思う^^、性善説なら、みんなが寛容で、前向きになれるだろうし、ものすごく平和なんじゃないかなぁ...(^^)

逆に...、
何か害を及ぼすような結果って、性悪説...だと思う。
ウクライナ侵攻とか、ガザ侵攻とか...って、その最たるモノで、ものすごく辛いし、悲しくなる...


僕自身は、ものすごく性善説...からは、ほど遠いけれど、いつも性善説寄りでいたい...と思っています...(^^)
人と関わるときは、鵜呑みに良い人だぁ...はできないけれど、その人の良いところを見つける、良いところを見る...ようにしています^^

そうしてると、そのお陰で助けられることって、結構、あるような気がします...(^^)¥

 

多様性への理解や寛容って,学校なんかの全員一律的な場で体験的に学んだ気がする...

ネットのニュースで,小学校の「登校班」の廃止、継続の話題があった...

いろんな家庭の事情で、賛否両論なのは当然ですが、その記事は、「全員一律の扱い」が軋轢を生んでいて、「違い」を前提にした見直しを...的に締めくくられてました...(^^;)

その締めくくりを除けば,共働き世帯が多いなど,様々な家庭の事情が...で内容的には、継続が難しいのもしかたないのかなぁ...となるのですが...

気になるのは、やはり締めくくり...orz、そこからダラダラと思ってしまったことを書いています...(^^;)

僕の住んでる地域は,子供らが小学校のときの話ですが...,
新入生が入った時期と各月の始めの日だけ集団登校になっていました...一応,上級生で班長,副班長が決まっていて,決められた集合時間までは待って,時間になったら出発...と、そんな感じだったようです。

子どもの話を聞くと、誰々君は、よく間に合わないとか、誰々ちゃんは副班長なのにほとんど来ない...なんかの話がしょっちゅうでした^^

今思えば...、
そういう集団的な出来事で、子どもらは、「色んな人がいる」ってことを体験的に学んでたなぁ...と、そんな風に考えると普通に...、

「運動会」や「文化祭」みたいなクラスみんなが協力してやるイベントも、ガンガンにやる友だちもいれば、ダラダラとあまりやらない友だちも...要は...、
色んな友だちがいて、その彼らとの活動を通して、「色んな人」を知っていくし、共通の一つの活動を通して、人それぞれの付き合い方も学んでる...
そんな気がします。

上の子は一人暮らしで、今はもっぱら下の娘との話ばかりですが、彼女は、色んな友だちの話をしてくれます...、
下の娘の話を聞いていると、色んな事情を抱えた友だちがいそうだなぁ...ってよく感じます。そのときには...、

なるべく、その友だちの家(家族)ではこんな環境なのかもね...的な事情を一緒に考えながらの話をする ようにしています...そうすることで...、
ただ単に「ちょっと嫌かも」的な気持ちも、「そんな事情だったらしかたないかも...」になるかもしれない...と。

僕自身、たぶんですが、周りの人に比べると、個々に関わるという点では、何か悩みを抱えている人など、関われるタイプは幅広いみたい...です(^^;)

それも、今思えば...、
育った小中学校の環境が大きかった...気がします...(^^;)

特に中学校は、公立中学で地域でも評判は悪かったですが、お陰で、それこそ色んな人がいました...いい人から、悪いと言われる人まで幅広く...それが一所にいる...なので...、

色んな人がいることも体験的に知れたし、それぞれに色んな事情を抱えていることも知れた気がします^^、逆に...、

高校は運良く、いわゆる進学校 に入ることが出来たのですが、そこで感じたのは...、「なんとみんな理解がよく、話が通じやすいんだろう」...でした。裏を返せば、近い価値観の人たちが集まっていたんだなぁ...と。
これで良かったのは、

「より良い方向にみんなガンガン進む」ってことです、これは中学校ではなかったかな...?、そんな友だちがいる学校のお陰で、高い教養を身につける習慣は、やはりこの時期に着いたかなって思っています^^、でも、

多様性への理解...という点に関しては、高校よりも圧倒的に中学校のお陰だった...それは強く感じます...

ちょっと話は長くなってしまいましたが...、

何かを「全員が一緒になってやる」、特に、小中学校のようなまだ受験で階層分けされていないような環境で、色んな人と一緒に一つの活動を経験する...、
これって、多様性への理解や寛容という意味で、ものすごく大切なこと じゃない...それを強く思います(^^)

逆に...、

それを「極端に」避けるようになっちゃう...と、何も知る機会がなくて、ちょっとでも自分とは違うことに違和感や嫌悪感を感じてしまう ようになっちゃって、多様性を損なう結果になってしまう...気がします。

何かと多様性が叫ばれる今、「自分を理解してくれない」的なことを、よく見聞きする気がしますが、実際は「そんなに自分のことなんて(自分が思うように)理解されるもんじゃない」「でも、ここくらいは分かってくれてそう...」くらいなのが当たり前のはず...じゃないのかなぁ...、そして、

「そういうことが当たり前なんだ」...って感覚を、あまりにも体験的に学べずに持てていない...そういう機会を避けすぎている...ことが、今の多様性に対する違和感を感じる考え方...の背景にあるように思います。

そういう意味で、色んな友だちが一緒になろうとする 登校班も、多様性への理解を育むという点でも意味がある...んじゃないのかな。


あと、うちの地域は、年配の方々が誘導員としていつも立ってくださっていて、子どもたちも安心して登校できています。これには本当に感謝です^^

そんなこんなを、だらだらと考えて、長々としたことを書いてしまいました...orz

 

楓の開花...桜の満開の中でひっそり...赤くて小さな花でした^^

週末、桜が見頃というので、少し車で足を伸ばして、桜を見にいきました^^

ただ...人出が多く、桜が咲いているその公園に辿り着くのに苦労し、駐車場もなかなか決められず...降りるまでにかなり疲れてしまいました...orz

ですが...

駐車場からテクテクと歩いて、花見の目的地に到着すると、桜があちこちと立派に咲いていて、ちょっと圧倒されてしまいました...来て良かった...(^^)/

桜の花(パノラマ撮影)

桜木の下(パノラマ撮影)

 

いたる所で咲いている桜を、たくさんの人で賑わう中をすり抜けながら見て回り、ときどき写真に収めつつ、花見を楽しみました^^

ソメイヨシノだけじゃなく、しだれ桜とおぼしき桜も咲いていました...

写真は普通の撮影が多いのですが、パノラマ撮影もよく使います...ここ数年で随分と進化していて結構面白い写真が撮れます...どうやって繋げているんだか...?

そんな中、その公園の端のところ、少し高台で街が見渡せるところに...、
新緑の葉が綺麗な楓が植えられていて、よくよく見ると、明るい淡い緑の葉の下に小さな赤味がかった花が、鈴がぶら下がるように可愛らしく咲いてました^^

楓は、紅葉や種はよく見かけてましたが、花をちゃんと見たのは、これが初めてかも...

楓の小さな花たち(1)

楓の小さな花たち(2)


来春からは、桜の季節=楓の開花の季節...で、カエデの葉を見かけたら、何気に探してしまうかなぁ...(^^)

最近は、車で走っていて、川沿いの菜の花の茂みや、青々とした畑の方をみると、モンシロチョウなんかも結構飛んでいて、楽しいです...(^^)/

 

 

ある日の「勉強のススメ」的な話...子どもとの会話...勉強で頭に知識を入れる意味

下の娘はまだ春休み...羨ましい。夜、学校で出されたワークらしきものと、上の子が使っていた参考書で数学の勉強をやってました^^

ときどき気分転換なのか話しかけてきて、勉強のこと、学校のこと、友だちのこと...などなどの話をします。

今回はどういう流れだったか...?、確か、友だちがあまり勉強しない...って話だった記憶です...(^^;)

聞いていると、ある友だちは、試験の点数が低かったら遊ぶ時間が減らされたり...と、一見、厳しい家なんかな?と思ったのですが、制限されてる間は勉強はしてないらしい...つまり...、
遊ぶ時間を制限されてるときに、家族のフォローはない...みたいで、じゃあ、勉強しようって気持ちになれないかなぁ...と、色々悩ましい話でした...(^^;)、
そんな話で思わず、口にしたのは、

「そんなんだったら、なおさら勉強したらいいのに...」...でした^^

勉強してれば、何らかの知識がついて、それが何かを考えるのに役に立つ...逆に、勉強しないままって、何かを考え出すこと...は難しい...云々

そんな話から...

今はネットで何でも調べられて、あんまり勉強しなくてもいい...そんな風に思える...でしょ...でも、やっぱり勉強した方がいい^^、

勉強するってのは、色んな知識を頭に入れる...ってことじゃない...、例えば...

「AするとBになる...って関係は、全く別の分野のCとDでも使えそう」だったり、ほかにも...
「AとBとの関係と、そこから離れたXとYとの関係は、組み合わせると面白い使い方ができるかも...」だったり...そうなると...、

「知識が増えるほど、色んなことを考え出せる」、つまり...、

脳は一種の道具箱で、知識は、その中にある道具

たくさんの道具が揃ってるほど、色んなモノが作れる...てのと同じ...でしょ^^

って話になりました。そして、

一つの道具箱に色んな道具が入ってれば、「これとあれを使えば...」的に組み合わせられて、よりいいモノができそう...みたいなこともパッと気づきやすかったり...する。実は...

脳の中も似てて、色んな知識があればあるほど、その中のいくつかの知識を組み合わせて、「いいこと思いついた!」...みたいなことができてる...かなぁ...と。

そう考えると...、
脳って知識や経験を貯めるだけじゃなくて、そこで得た多くの情報を瞬間的に繋ぎ合わせる...そして、何か新しいものを考えつく。そんな役目をしてる...ってことになるよね...たぶん、それに比べて、

ネットで調べる...だと、得られる情報は一つずつ、頭の中の情報を引っ張り出すより遙かに遅いし、しかも、調べてる間は一つの情報...なので、何か別の情報と繋がって、何かひらめく...ってのは簡単には起こりにくい...

こんな話を、彼女も妙に納得してた感じで...話ました^^

そんなこんなで...、

脳に知識をコレクションする...その意味で、やっぱり勉強はやった方がいいね^^

...の話でした...(^^)

 

ただ王道あるのみ...論語と算段...組織運営は規則やルールより思いやりで^^

また、途中放棄して読みはじめた論語と算段」渋沢栄一 著(角川文庫)...からの話です。すみません...

この前のお困りごとは、仕事の向き合い方でしたが、今回は、組織運営のあり方で、これまた今を映したかのような内容だったので...つい...

あまり、著書の内容を使って書くのは...と思うのですが...(^^;)


その論語と算段」の中で、
「ただ王道あるのみ」って話があって、そこには直接、組織運営なんて書いてないのですが,今の色んな組織運営の問題に関係して、特に、管理者側の在り方について、なるほどなぁ...って話がありました。

特に前半ですが、最近多いと感じる 何でもルールや規則を作って...に対する戒め的な内容です...、そんなことの前にお互いにコミュニケーションをとって、思いやりを持ってやった方がいい...よね^^...って、まさにその通りって話でした。

あと、原文は、当時を反映して、国家とか、富国強兵なんかの言葉がでてきますが、ピンと来ないので、社会とか、豊かな社会 に勝手に置き換えてます(^^;)

自分が読みやすいよう、前回同様、ラフな感じになんとなく書いてみました^^(多少の間違いはご勘弁ください...(^^;))


以下、その内容です...

「常日頃、思うのは、社会問題とか労働問題などは、単純に法律の力だけに頼っても解決されるものじゃない。例えば、家族一つにしても、親子、兄弟、親族などなど、それぞれが権利と義務を主張して、一つひとつ法律で決着しようとすると、人情は自ずから険悪になって、お互いに壁ができて、何かある度に嫌悪な衝突沙汰ばかりが起きて、家族仲良く団欒なんかはほとんど望めない。

富豪と貧しい人たちとの関係も、これと似た同じだと思う。資本家と労働者との間は、これまでは家族的な関係で成立してきたものだったのに、急にルールを作り、これだけで取り締まろうとするのは、一見、もっともらしい考えなんだろうけど、これを実際にやってみて、結果的にルールを作った側の理想通りにいくだろうか。長い月日の関係から資本家と労働者との間に、折角できた結びつきの中で、言葉では上手く言えない一種の情愛も、ルールを作り両者の権利と義務を明らかに主張するようになると、当然、隔たりができてしまわないだろうか。もしそうなってしまうと、管理者側が苦労した甲斐もないし、目的にも反することになるだろうから、この点は、最も注意深く考慮しなければならないと思う。

私の希望を言えば、ルールを作るのはよいけれど、ルールを作ったからといって、否応なしにそのルールにかけて決めてしまおうとするのは、できるならしなようにしたい。もし、富豪も貧しい人らも王道(徳でもって物事を治める)的な考えを持って、つまり、人としてあるべき振る舞いの規範を身につけて社会で生きていくなら、百の法や千の規則があるよりも遙かに勝っている。別の言い方をすると、資本家は王道を持って労働者に、労働者もまた王道を持って資本家に向き合って、お互いが関係する事業の利害や得失がお互いに共通していることを理解して、お互いに思いやりを持つことを始めから終わりまで心掛ければ、本当の調和が得られる。両者がこのようになってしまえば、権利や義務への意識などは、無駄に両者の感情を隔てる以外、ほとんど何の効果もないと言っていいと思う。

私が前に欧米を訪れた際、実際に見たドイツの会社や、アメリカの時計会社はとても家族的で、両者の間は和気藹々としていて、その様子にとても感心してしまった。これこそ自分が思い描く王道の円熟したもので、こうなれば法を作ったとしても、いい意味でその法はただの役に立たない文で終わってしまう。結果として、このような状況が作れれば、労働問題も何も気にすることもないじゃないか。
それなのに、社会にはこれらの点に深い注意も払わず、何も考えずに貧富の隔たりを引き直そうと願う人たちがいたりする。ただ、貧富の隔たりは、その程度こそ違いはあっても、いつの時代も、必ず存在してしまうものである。当然、みんなが豊かになることは望ましいけど、人には才能も含め、いろいろと違いがあって、誰もが同じように豊かになることはなかなか望めない。なので、富の分配や平均などは、考えても難しいのが現実です。つまり、豊かな者がいるから貧しい者がいるというような論理で、みんなこぞって富める人を排斥してしまうと、どうやって社会を豊かにすることができるだろうか。個人の富は、巡り巡って、社会の富です。個人が富を得ようとするのではなくして、どうやって豊かな社会ができるだろう、社会を豊にして自分も出世したいと思うから、人は毎日一生懸命になれる。その結果、貧富の隔たりが出来てしまうのなら、それは残念ながら仕方のないことであって、人間社会の逃れられないものとして諦めざるを得ない。

そうは言っても、常に、その関係が円満になるよう両者の調和が取れるように意識することは、見識のある者として1日も欠かさない覚悟でいます。これを自然の成り行きに任せ、人間社会の性だからと、そのまま放置しておくと、いつかとんでもない大事になってしまうのは、当然です。なので、災いを未然に防ぐことを考え、うまく王道を持って何ごとも良くしようと意識することを心から願っています。」

 

余談ですが、さらに少し読み進めていくと、渋沢栄一が、キリスト教や仏教ではなく、論語を拠り所にしてる話 があって、その理由は、論語の中には、奇跡がない からだそうです^^(「仁に当たっては師に譲らず」より)。
ほんと素敵です。会ってみたかった...(^^)

 

この熟誠を要す...論語と算段...自分の理想や思いを仕事に乗っける^^

ほんの少し、余裕が出てきたので、随分と放置していた論語と算段」渋沢栄一 著(角川文庫)を読んでいます...(^^)

ただ文語体に近くて読みにづらく、相変わらずなかなか進みません...orz

それにしても...
大概、今のお困りごとが、この本には書いてあって、ある意味がっかり...そして、人は変わらないんだなぁ...と、またがっかり...だったりします。

彼がこれを大きな戦争前夜に書いていたんだとすると...今も同じ...つまり、今の世界情勢って、大きな戦争に繋がり得るんじゃないのか...?、って心配になります...orz


本題ですが...、この「論語と算段」の中に、
「この熟誠を要す」って話があって、そこに、仕事の向き合い方について、なるほどなぁ...って話がありました。

読みにくい文体なので、自分のために、ラフな感じになんとなく書いてみました^^
多少の間違いはあるかもですが...(^^;)

最近多いと感じる額面通りの仕事に対する戒め的な内容です...、どうせ仕事するなら、自分の理想や希望を入れちゃって、あれこれ工夫してやった方がいい...よね^^...って感じで、間違いなくそう思う。


以下、その内容です...
「どんな仕事であっても、趣味の側面があった方がいい。任された業務をやるにしても、趣味を持ってやることを心底希望したい。

趣味というと自分の理想や欲望みたいなものだったり、ほかにも、自分の好みや楽しみになるようなもの...そんな風に聞こえるかもしれない。なので、ここで言う趣味をどう理解すればよいかになるけれど...、単に与えられた職務を額面通りにやっていくというのは、決まったことを言われた通りにやっていくってことだけど、趣味を持ってその職務をやるというのは、心底思い描いて、この仕事はこうあるべきだよなぁ...とか、こんな風にやりたい...とか、こうなるんだったら、ここのところをこうやれば、こうなるよなぁ...みたいに、その仕事に、思い描く色々な理想や欲望を乗っけながらやっていく。それが仕事に趣味を持つってことなんだと思う。

趣味にはほかにも意味があるだろうけど、どうせ仕事をやるのであれば、趣味を持ってやって欲しい。さらに一歩進んで、人として生まれたなら、人であるために、何事も趣味を持ってやっていきたい。今の世で、しっかりした趣味を持って、その趣味がまったく正しい方向に向上すれば、きっと相当に素晴らしい世の中になる...間違いないと思う。そこまでなくても、趣味を持ってやれれば、間違いなくその仕事には精神が宿っているはず。

もし、その仕事を決まった通りにやるだけなら、命は宿らない、形だけのものになってしまう。ある健康本には、年をとって生命があったとしても、ただ食って寝て過ごすだけなら、それは生命じゃなくて、単なる肉の塊と変わらない。なので、人は年をとって身体の自由が利かなくても、真心を持って関わることができれば、生命と言える存在だと書いてあった。人間なら、肉の塊より生命の存在でありたいと思うのは当然。特に、僕らのような年寄りは、いつもそれを心掛けなくちゃいけない。まだ、あいつは生きているかなぁ...なんて言われるは、まさに肉の塊と変わらない。もし世の中、そんな人ばかりだと、日本が活き活きするなんてないと思う。今の世間で著名な人でも、まだ生きてる?なんて言われる肉の塊みたいな人は多い。

これは、事業をやっていくのも同じ。それを単純にやっていくだけじゃなく、やっぱり趣味を持ってやっていった方がいい。趣味がないってことは、精神がないのと同じで、木製の偶像と同じ。

こういうことだから、何ごとも自分の仕事にしっかりとした趣味を持ってやりさえすれば、全て自分の思い通りになるとはいかなくても、心底思い描いている理想や欲望を部分的には適えられるはず。孔子の言葉にも、「これを知る者は、これを好む者に如かず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」というのがあって、これこそ趣味の極致なんだと思う。
自分の仕事に対しては、必ずこれをしっかり誠心誠意でやっていかないといけない。」